『食べ物の恨み』

「ねえ、始ちゃん」
 スタジオでの練習前、チューニング中のひとときだ。
 ジャーン、とギターを鳴らした悠介が、始に話しかけてきた。
「なんだよ」
「明日のライブの対バン、ヘブンズドアだよね?」
「おー、そうだけど」
 ──……ヘブンズドア。
 そのバンド名を聞くだけで、始の眉間にはしわが寄る。
 ボーカルの翔平率いるヘブンズドアは、なにかと始たちに絡んでくるバンドだ。ダイダラボッチ結成当初から、しょっちゅう同じライブにブッキングされている。
「あ、ほらまた」
 始の顔を見た悠介が、たしなめるように言った。
「始ちゃん、ヘブンズドアの話になるとすぐイヤそうな顔するんだから」
「うるせーよ。どう考えたってイヤだろ、翔平のバンドだぞ」
「翔平、翔平って……どうしてそんなに仲悪いの?」
「それは──」
 始の脳裏に、思い出したくもない記憶が浮かび上がってきた。
 あれは今から、どれくらい前のことだっただろう。

「いっけね、もうこんな時間かよ……!」
 スマートフォンの時計表示を見た始は、背中のギターを担ぎ直して走り出した。
(今日も、あのパン屋のカレーパン買って行くんだからな)
 ダイダラボッチがいつも練習をしているスタジオの近くには、始が気に入っているカレーパンを売る店がある。
 かりかりに揚げたパン生地に、大きめの野菜が入ったカレー。母がよく作ってくれたカレーライスを思い出すパンは、安くて腹がふくれるところも最高だ。
 ところが、それだけおいしいカレーパンなので、やはり人気があるらしい。
 先週、練習前に買いに行ったときは、まだ昼過ぎだというのにもう最後の一個だった。
 だから今日も、いつもより少し早めに家を出てきたのだけれど。
「う……売り切れ……!?」
「ごめんねえ。ちょうどさっき、最後の一個が売れたところなのよ」
 お兄ちゃんみたいにギター担いでる子たちの連れだったわあ、お友達なんじゃない? と言うパン屋のおばちゃんの声が、ぼんやりと遠く聞こえる。
(そんな……)
 始は、手の中の百円玉を握りしめた。
 せっかくおいしいカレーパンを食べて、練習をがんばろうと思っていたのに。
 腹の虫が、ぐう、と切なく鳴いた。
(今からコンビニに寄るか?)
 いや、コンビニのカレーパンではダメだ。
 この店の、ごろごろ野菜のカレーパンが食べたかったのだ。
(しかたない。練習終わりのメシまで我慢するか……)
 また来てね、というおばちゃんの声を背中に聞いて、とぼとぼとスタジオのロビーに入ったところ。
「…………あーっ!?」
 始は思わず、目の前の人物を指して大声を上げていた。
 ロビーでは、ベンチに座った翔平がカレーパンにかぶりついている。そのカレーパンは、さっき始が立ち寄ったパン屋のものだ。
「なんだよ、うるせーな」
 わなわなと震える始に、ごくんと口の中のものを飲み下した翔平が言った。
「そのカレーパン……」
「は? これか? この近くのパン屋で買ったんだよ。先週は惜しいところで、最後の一個買いそびれたからな」
「だ……だったら今週も俺に譲っとけよ、おまえがそのカレーパン食おうだなんて百年早えんだよ!」
「今週も……? おまえ、まさか先週の最後の一個……!」
「あーそうだよ! ちくしょー、今週も楽しみにしてたのに……」
 始が両肩をかくんを落とすと、翔平があざ笑うように立ち上がった。
「だったら、来週も食えなくしてやるよ。どうせ、おまえがスタジオに着くのなんて毎回毎回ぎりぎりだもんな? そんな心構えで練習してるやつなんか、ファンどころかカレーパンだって手に入んねえって教えてやるよ」
「はあぁ!? もういっぺん言ってみろ、てめえ!」
 ちょうどスタジオに着いた新田と乾が、あわてて始を止めに入る。
「おい、なにしてんだ始!」
「ケンカはよくないよ、始くん……!」
 それを追いかけるように到着したヘブンズドアのメンバーが翔平をなだめ、その場はおおごとにならずに済んだのだが──。

「そ、そんなことで、今でもなにかと敵対してるの……?」
 唖然としている悠介に、始は「おう」と力強くうなずく。
「当ったり前だろ、食べ物の恨みはコエーんだぞ!?」
「は、はあ……?」
「ヘブンズドア、ぜってーにぶっ潰す!!」
 始が決意も新たに拳を握る横で、悠介はなぜか、心底呆れた顔をしていた。